まだらの猫 – The tortoiseshell cat –


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 百年に一度の恐ろしい嵐が過ぎて早二週間が経った。悪夢のような有様だった。街のあらゆる場所が、一七〇三年のグレートストームもかくやという惨劇に見舞われていた。屋根が吹き飛び、石造りの壁は文字通りなぎ倒され、海に近い街などは大変な有り様で多くの家々が紙のように潰れてしまったという。大嵐が過ぎてから数日の間も高波は魔物のような大口で港を呑み込み続け、近づくものは誰でもみな死を覚悟しなければならなかった。港に打ち寄せる波の高さは一軒の邸宅を呑み込むほどであるというのだから、数百の商船が藻屑になってしまったのも無理からぬ話である。
 多くの市民が死んだが、正確な死者の数は不明だった。千とか、二千とか。そのような数字が人々の口の端にのぼる。さらには無数の人々が家を失い、路頭をあてどなく彷徨っている。困難な時代に訪れたこの無慈悲な事態を一体どのようにして乗り越えればよいのかと、人々はただただ呆然とするばかりであった。
 大嵐が過ぎてから二週間のあいだ、パトリシア・ローウェンは開放した診療所を訪れる市民の治療に追われていた。当然、施設は彼女のものではなかった。間の悪いことに、現在、当該所有者は国外にいるため、手伝いの身である彼女――その件に関して、ドクター・ワイアット・ブラックハウスはパトリシアを助手と呼ぶ――が全てを受け持っていた。訪れる人間の大概は、大嵐によって直接被害を受けたというよりは、事後の始末をしている最中に起こったあれやこれやで怪我を抱えていることが多かった。直接被害を受けたものは遺体となって運ばれてくる。もはやどこの死体安置所も満杯であり、診療所を兼ねているブラックハウス邸が受け入れ先になるのも時間の問題であった。邸に務める家政婦や使用人たちはよく働いてくれた。数々の手際のよい手配により、パトリシアは敷地から多くの棺が運ばれていくのを、目に涙を浮かべている家政婦たちとともに見送ることになる。
 このように街は惨憺たる事態に瀕していたが、パトリシアは同時に確信していた。遅かれ早かれ、必ずや英国市民は以前のような活力を取り戻すであろう、と。お互いに慰め、肩を抱き合った時のぬくもりは、なにものにも代えがたいものだ。
「まったく……先日の嵐は災難なことだったな」エドワード・トマス・ライムリック卿がパトリシアに目を向けて言った。
「見たかね、あの高波を。さすがの我が家もあのような波に晒されては一日も持つまい。よくぞウェストミンスター橋が無事だったものだ! 甥のロバートの言うことには、隣の街では船が二十キロ先の土地で見つかったとか、洪水に呑まれて溺死した人間が河に浮いておったとか、恐ろしいことが起こっているそうだ」ライムリック卿はシルバーグレイのふさふさした髭をつかみ、物憂げな顔をした。「しばらくの間、ロンドンは混沌としておるだろうな。教会がなんと言うつもりか、今からでも頭に思い浮かぶようだよ」
「あなたも大変だったでしょう、パトリシア」ライムリック卿の娘セシルは、パトリシアの隣で気遣わしげな顔をしていた。「私にもできることがあれば、なんでも言ってちょうだいね。力になりたいの」彼女の夫が海軍に勤めていることを考えれば、なんと気丈な振る舞いであろうか。
 パトリシアはセイロンティーの豊かな香りのする陶磁のカップを置いた。働き詰めでヘトヘトな身体には一番の滋養だった。「ありがとう、シシー。さしあたりの問題は、あなたのお父様がすべて見てくださっているから、大丈夫よ。本当に感謝しています、ライムリック卿」今日、パトリシアがライムリック邸を訪れたのは診療所で不足している医療器材や物資の援助を求めるためであった。色良い返事が聞けて彼女はひとまず安心していた。
 彼はうむ、とパイプ煙草を一吹かし、「困ったことがあれば包み隠さず教えなさい、パトリシア。診療所の土地は半分は私のものなのだから、何もかもの面倒を見るのが当然と言える。セシル、無理強いをしてはいけない。今のブラックハウス邸は、とてもではないがお前の手に負えるものではないよ」
「でも……」セシルは一心にパトリシアを見つめるので、彼女はセシルの手を取り優しく微笑んだ。「せめて診療所に来て、患者さんに優しくお声をかけてくれる? 〝レディ〟・セシルが来てくれれば、きっとみんな傷ついた心が癒されるでしょう。高貴なる人が見捨てないでいてくれると、励みになるわ」セシルはゆっくり頷いて了承した。ライムリック卿がひっそり眉を片方上げたが、別段反対の意は唱えなかったので、親子揃って診療所を訪問する日が近いかもしれないとパトリシアは思った。
「それはそうと、軍からは何か連絡がありましたの?」
「まだだよ、パトリシア」と、ライムリック卿。「しかし、航海に出たとはいえ三週間も前だ。今は大陸に駐留しているはずだ。万一の心配もあるが問題ないと思うよ。嵐の外にいたのは確実だろう」ライムリック卿は椅子に深く座り、ぱちり、ぱちりと火の粉が爆ぜ、赤く燃えている暖炉を見つめた。その目が再び彼女に向けられる。
「おお、そうだ、パトリシア。ワイアット・ブラックハウスはどうなっているんだね? まったくあの男は肝心要な時に不在とは……。それにここ最近、とんと顔を見せないではないか。知っての通り、かの紳士はちっと変わったところがあるからね。定期的に近況を聞いてやらねば、最後に耳に入る話は葬儀の知らせになるだろうさ」
 セシルはライムリック卿の親しみのある不躾な物言いに、まあ、と目を丸くしたが、パトリシアは気にならなかった。
「ドクターはフランスに出ているんです」
「ほう、フランスに。学術的な集まりかね」
「いいえ、古い友人のもとを訪ねているんです」
「どういったご用件なの?」と、セシル。
「人狼の研究と伺っているわ」
「――人狼!」ライムリック卿とセシルは紅茶を数滴、カップから跳ねさせ、とび上がる勢いで聞き返した。
「昔から変わり者だとは思っていたが、やつめ、狂人の相手ばかりをしたせいに違いない。わしは前から言っておっただろう。精神の病は伝染するのだ!」
 パトリシアは困ったように言った。
「ドクターはライムリック卿がそう仰るのを聞きたかっただけですわ。ご友人は動物由来の感染症を診るお医者様です。思うに、ただの狂犬病患者の診察に立ち会うだけでしょう。今朝、電報が入りましたので、彼の心配はいりません」
 親子は揃って椅子に沈んだ。「まったく、ブラックハウスの酔狂に付き合っていたら、おちおち紅茶もゆっくり飲めまいよ」ライムリック卿は人を呼んで新しい紅茶を用意させた。ややもすると使用人は再び部屋に戻り、新しいティーセットを一式並べ始めた。磁器がカチャカチャと鳴る音に耳をすませていると、いつのまに入ってきたか定かでない。毛の長い真っ白な猫が優雅な様子で、するりと安楽椅子に登ってきた。猫は甘えた様子でパトリシアの膝に前脚をかけ、大きな宝石のような緑の瞳で彼女を見上げ、ティーカップをつかむ指のあたりをすんすんと嗅ぎ始めた。
 その間、パトリシアは微動だにしなかった。視線を移すこともなかった。そのうち、彫像のように固まるパトリシアに興味が失せたのか、猫はふいと首を返し、彼女の膝から下りてパトリシアとセシルの間で雪玉のように丸くなった。
「どうかしたの、パティ」と、セシルが訊いた。「今日は随分とブランシュに冷たいじゃない」あんなに可愛がってくれていたのに、とセシルは猫の白い背中を撫でつけ、不思議がった。猫は心地よさそうに喉を鳴らしている。
「粗相でもあったかね」とライムリック卿。
「いいえ、ただ……」パトリシアは言葉に詰まった。「ここ数日、本当に色々なことが起こって……ああ、そうよ、猫だわ。あの恐ろしい猫……」打って変わって苦悶の顔をするパトリシアにセシルが姉のように気を遣った。実際、彼女たちは幼少の頃から仲が良く、血の繋がりもあってか姉妹同然であった。
「これ、今日はあっちへお行き。厨房に行っておやつでも貰ってきなさい」
 白い猫を両手で掴んで寝椅子からおろしたものの――元来、猫とはそういうものだが――「そうは言われても今はここが気に入ったのだ」と言わんばかりに何度おろされても猫は寝椅子に登る。しまいには、シャッと牙を見せてセシルの扱いに抗議声明を発表した。
「もう、このこったら!」
「いいのよ、シシー。少し神経質になってるだけなの」パトリシアは細い指で額を押さえた。
「でも、あなた、今日はずっと顔色がよくなくってよ。患者さんにつきっきりのようだったから、無理もないのだろうけれど――それにしても、パティ、気分がすぐれないのではなくて? ブランデーはいかが?」セシルはあれやこれやと気を回してみるが、最終的にはいつもこう言った。「どうしてこんな時、ブラックハウスさんはパティについてやらないのかしら?」
 パトリシアは曖昧な顔で首をふった。「大丈夫、私の問題じゃないの。ただ、ちょっと……嵐の夜はいろいろなことが起こるでしょう? だから――」そこまで言って、二人が奇妙な顔でパトリシアを見つめていることに気がつき、彼女は居心地が悪くなった。誤魔化すように言葉を続ける。
「だから……そう、猫ってどうしてこうあるのかしらって時々思うの。まるで人の言うことを理解しているような素振りもするし、とても頑固だわ。美術品のように優雅かと思えば、次に見せるのは獣の姿。ドクターの仰る人間の二面性というものが、きっと猫にもあるに違いないのよ」
「一体何があったのかな?」ライムリック卿が訊いた。口髭を撫でつけ、「わしの推理だと、嵐の来る前と今のお前さんの態度から想像するに、かの恐ろしい大嵐の夜に猫に関して考えを改めさせるような出来事でもあったかのようだ」
 パトリシアはうつむき、恥じるようにスカートを揉んだ。
「ライムリック卿には隠し事ができませんわね。その通りです」
「ここは一つ、事の次第を話してみてはどうかね? お前さんがよければ、だが」ライムリック卿は続けて「ブラックハウスの帰りはずっと先だと聞いておるが? 一人で考え込むよりはずっといいだろう」と言った。セシルは身を乗り出し、首を傾げて彼女の言葉を待っていた。
 パトリシアは、この好奇心旺盛な親子に向けて曖昧に微笑み――二人はいつも、ドクター・ブラックハウスの元へ舞い込む奇妙な症例について聞きたがった――「患者の個人的な事実の範囲外なら、お話できますわ」と答えた。
「うむ。では、聞こうか」ライムリック卿はパイプに煙草を詰め、火をつけた。
 
 
 あの夜、信じがたい強風がブラックハウス邸を揺らし、木の窓枠は始終がたぴし、がたぴしと異常な音を立てて、住んでいる者たちを震えあがらせていた。パトリシアは家主が不在の間の留守を預かっており、雨が破壊的に叩きつける屋根の下で、燭台を片手に家中を歩き回って寝ずの晩をすごさなければならなかった。夜半になると、事態は悪化した。大風で飛ばされてきたであろう太い枝が、一階のキッチンに飛び込んできたのだ。枝は雨戸と窓ガラスを突き破り、板床に刺さってしまった。雨水はみるみると窓からたれ込んできて、砕けたガラスの上で洪水を作り、旧約聖書に書かれる大洪水がごとく大変な事態になった。パトリシアは使用人に叫ぶように指示をとばし、大急ぎで枝を切り落とさせ、窓を塞ぎ、床を掃除し、ついで他の窓も補強するように言いつけた。彼らは青い顔をしながらも、ばたばたを駆け回り、よく働いてくれたのだった。
 そんなてんやわんやの大騒ぎだったので、ブラックハウス邸の玄関扉を叩く音がしていたことに、しばらく誰も気がつかなかった。
「おおい――誰かいないのか! 助けてくれ! ここを開けてくれ!」
吹き荒れる風と大雨の音にまぎれて、弱々しい男の声が玄関からしたので、パトリシアと家政婦のマリーウェルはとび上がった。「こんな夜更けの――しかも大嵐の夜に、人が来るなんて!」家政婦は恐怖の表情を浮かべて震え上がった。「およしなさい、ミス・ローウェン! 何か悪い物を呼び込んでしまうかもしれませんよ!」彼女は玄関に向かいかけたパトリシアの腕をしっかりと掴み、強い口調で言った。
「だけど、お客様かもしれないわ。それに助けを求めてる」パトリシアは答える。「ワイアットの患者なら無視することなんてできません。それに、ここに来る患者にちょっと変わった人が多いのは、マリーウェルもご存じでしょう?」
「ちょっとどころではありません! 百年に一度の大嵐ですよ!」家政婦は半ば叫んで言った。「そういって一ヶ月前に刃物を振り回す男を招いてしまったことは忘れもしませんのよ! わたくしは今でも夢に見るのです――狂気に囚われた男の顔を! あの時はセシル様の旦那様が偶然ご一緒していたからよかったものの、今は男手が不足しているんですよ!」
「大尉が頼りになることはあの時よくわかりました。でも、このまま放っておけば、あの方、大変なことになるわ! 庭先で冷たくなっていたらどうするの」
 パトリシアと婦長がささやかに言い合っている間も、ごうごうと吹きすさぶ風は強くなる一方で、男の呼びかけと頼りないノックは招かれざる幽鬼の訪問を思わせた。
「とにかく、紅茶の一杯でもお出ししてあげなくては。先生がここにいれば、きっと同じ考えを言うに違いありません」
 背後で囁く家政婦の祈りの言葉に加護されながら、パトリシアは玄関を開けた。そこには痩せた男が、哀れを誘うほどずぶ濡れの格好で立っていた。白髪から落ちる水滴が目の中に入るのか、しきりに瞬きを繰り返し、しばらく髭を剃り忘れている顎からぽたぽたと水が落ちていた。蒼白の顔には皺が深く――その表情は何かに怯えているようだった。
「突然の訪問をお許しください、マダム」男は歯の音が合わない南部訛りで挨拶した後、何かぶつぶつと感謝の言葉を呟きながら、なだれ込むように家に入ってきた。マリーウェルが忙しく乾いた布を男に手渡し、熱い紅茶を用意するためにキッチンに引っ込んだ時、彼はF――だと名乗った。
「こちらはドクター・ブラックハウスのお宅だと伺ったのですが……先生はどちらに?」
パトリシアは驚いた。Fと言えば、一時期ロンドン社交界の寵児といわれた人物で、『死と婚礼を挙げる花嫁』や『苦悶する聖職者』など、巧みに油彩をあやつり死と聖域を描かせれば他に勝るものなしと言われていた男だった。だが放埒な社交場でもてはやされたのは金持ち向けの肖像画であることを知った彼は、幾ばくかの作品を書いた後大衆の前から姿を消した。生来の癇癪により衆目の場でワイングラスを叩き割っただの、心労がたたり流感にかかってしまっただの、そんな噂が囁かれていた。
 そのうちのどちらかはあながち嘘ではないのではないかしら、とパトリシアは思った。当時の飛ぶ鳥を落とすと言われていた勢いは今や見る影もなく、Fは落ちくぼんだ眼でおどおどと玄関を見回していた。今宵の嵐による混乱か、はたまた持病のせいだろうか――とはいえ、その姿はまるで、見知らぬ土地に連れていかれて混乱した猫のような挙動不審さであった。とかくその姿は、この診療所兼邸宅にたびたびやってくる神経症患者そのもののようであった。
「さあ、どうぞこちらへ」
 パトリシアは男の肩を支えて、よろよろと二階のブラックハウスの書斎へ連れて行き、来客用の椅子に座らせたあとは暖炉に火をつけ部屋を暖めた。
「ドクター・ブラックハウスに御用なのですね、ミスター・F。私はパトリシア・ローウェンと申します。正直に言って、おどろいてしまいました――あなのことは知っているどころの話ではありません。ブラックハウスは特にあなたの絵を気に入っておりまして……先ほど階段を上がった時にお気づきになったかと思いますが、かの有名な一枚の複製画を所持しているんです」
 寒さで震えているFに乾いた真っ白なタオルを渡し、
「ですが、このような夜に訪ねていただいた手前、大変申し訳無いのですが……先生は今、こちらにおりません。所用でフランスに――」パトリシアが言い終わらないうちに、Fは「それでは困る!」と来客椅子から立ち上がった。
 あまりの大声に驚いてパトリシアは暖炉の前で火掻き棒を取り落した。Fの顔は今にも泣き出さんばかりになっていた。実年齢は若いはずなのだが、白髪や顔の皺のせいで実際よりも年を取っているように見え、何かちぐはぐした印象を受けた。
「どうか落ち着いてください。じきにマリーウェルが紅茶を持ってまいりますから、まずは身体を温めて」
 その言葉通りミセス・マリーウェルが紅茶を持って書斎に入ってきた。彼女はさきほどの不吉な心持ちをおくびにも出さず、Fに一瞥投げただけで静かに去った。パトリシアが湯気の立つ紅茶を勧めると、Fは椅子に座り直して背中を丸め、カップを持つやいなや、猫舌なのかふーふーと湯気を吹き飛ばし、舌を出して獣のようにぴちゃぴちゃと飲み始めた。パトリシアは内心ぎょっと引きつったが、決して顔には出さなかった。
 しばらくしてFは落ち着いたらしく、落ちくぼんだ目で彼女を見上げた。
「先生はいつお戻りになるんでしょうか」
「三週間後に」軋む窓を見ていたパトリシアがふり返ると、Fは目に見えて落胆していた。「ですが、ドクター・ブラックハウスの留守の間はわたくしがご用件を伺うことになっているんです。重大な用であれば電報を打って指示を仰ぐこともありますし、必要なら安定剤と睡眠薬もお出しできますわ。意外に思うかもしれませんが、わたくしはこちらで助手を務めているんです」
「ああ――そうか――そうだったんですね。そうしてもらえると、本当に、ありがたい」Fはどもりながら言った。「だ、だが……実を言うと、私は自分の置かれている状況を、どう説明したらよいのかわからないのです。信じられないことですが、そうとしか言えません。ただ、色々なことを研究されている先生であれば、どうにかしてもらえるのではないかという一心でこちらに……」男は神経質な指先で瞼を押さえ、口の中でぶつぶつと神にすがる言葉を呟いた。
 パトリシアはしばらく間をおいて、いった。
「あなたの心はかなりご不幸に見舞われているようですね、ミスター」
「どうか先生の――いえ、ご婦人のご同情をいただきたく参ったのです。それほど悩んでおるのです。とてつもなく厄介な、悪意のある、何かがそこに迫っています。一体どうしたらよいのでしょうか? 私の身の上を聞けば、きっと先生も、ミセス・ローウェンも、納得といわないでも多少のご理解はいただけると思います」
 正しくは〝ミセス〟ではない。しかし精神を擦り切らせているFにあえてそれを訂正する気がおきなかったので放っておき、パトリシアは書斎に座り、いくつか質問してペンを走らせた。患者――Fは、長期にわたる不眠を抱え、動悸、頭痛を起こして、絶えず不安症に見舞われている。
 Fは突然、「あのう、こちらでは猫を飼っておいでですか?」と扉を振り向いた。見えない影に怯えているかのようだった。
「いいえ、おりません」パトリシアは答えた。「ドクターはそういった気まぐれな生き物を嫌っております」
 Fはなにか思いつめてイライラしたようすで足を揺らし、ううんと唸ったあと、ちょっと言いにくいように口をつぐんだが、やがて切り出した。
「ならば結構です……不躾を申して申し訳ありません。なぜそんなことを尋ねたかというと、私の心を悩ますのは、他でもない――猫なのです。一匹のまだら模様の……猫が……」
 Fが画家を生業としていることは先ほど言ったが、ロンドン社交界から退いた後の話はこうである。華やかな享楽にほとほと疲れはてた彼は体調を崩し、顧客の言いつけ通りの絵を描くことが困難になってしまった。そこで、肖像画はもとより、彼の内に抱えるやや退廃的な感性とは一旦別れを告げるつもりで、妻のサラと息子のハロルドの三人を連れ彼の生まれ故郷である郊外の美しい町に引っ越したそうだ。
 にれの枝が大きく広がってその緑の木立ちが道沿いに並び、朝になるとつゆが薔薇をぬらし、湖水のほとりには四季折々の花が咲き、あたかも童話の世界のような土地だったという。Fの言うことには、自然のおりなす奇跡と生命力に改めて目を向け、自身の目指すべきまったく新しいものを模索するのにぴったりの場所だったそうだ。妻は健康そのものであり、子供はやっと歩けるぐらいの年になっていた。一時期の多額の収入は充分に残っていたため、一家が静かに暮らしていく分には問題はなかった。妻のサラは住み慣れた場所や友人たちから離れるのを悲しんでいたが、ひとときの仮住まいであることと、彼の健康のことなどを踏まえてFの辛抱強い説得についに折れた。引っ越して数ヶ月もすればサラもハロルドも故郷の土地を気に入っていたという。
 ある夏の中ごろ、Fは習作がてら家の全景をキャンバスに写そうと小高い丘にのぼって仕事道具を広げていた。そばには立派な林檎の木が一本生え、それがいいあんばいに日陰を作り、そよそよとした風が心地よい場所だった。陽差しは傾きかけていたが、しばらくすれば夕空に浮かぶ彼の家とその奥にある湖が茜色に染まって、すばらしい景色を作り出すのだという。
 作業に没頭していたところ、ふいに猫の鳴き声がしてFは我に返る。気がつけば、Fの隣で猫が座っていた。
「全く気がつきませんでして……。かなり大きな猫でしたよ。腕で抱えるのもやっとなくらいで……。とはいえ、どう見ても家猫の類の顔つきをしていました。おわかりでしょう? 獣とあの甘ったれた顔の中間くらいのものですよ。そしてなんと言っても、あの毛並み! 赤茶色と黒と白銀色が見事なまだら模様を作って、立派なものでした。今まで見たこともないような、大理石を砕いて混ぜたような柄で――」Fは語る。
 その雄猫は、意味もわからぬくせに、金の目でしげしげとキャンバスを眺めていた。画材をひっくり返そうものならすぐさま追い払うつもりでいたが、非常に大人しく、いつまでも同じ場所に座り込んでいたため、そのまま日が暮れるまで一緒に絵を描いていたそうだ。そうしているうちにFは、これほどの猫ならハロルドの遊び相手にちょうど良いのではないかと思いついたという。
 パトリシアは書き物を止めて、目を上げた。「よほど大人しかったんでしょうね」
「ええそれはもう――図体のわりには鼠一匹捕まえてきませんでしたよ」
 その雄猫を連れて帰ると、ハロルドはその友人をたいそう気に入って、また猫の方も息子の背後をどこまでもついていくという、仲睦まじい姿が見られた。Fは安心していた。しかし、サラの方は違った。
「なんだか気味が悪いわ……」サラは生来、いろいろなことを心配するたちであった。「ハロルドを寝かしつけたあと、キッチンに立っていると、あの猫が椅子に座って金色の目で私をじっと見ているの」
「猫なんてそういうものじゃないか。獣じみたまだら模様にあの大きさだから不気味にうつっているだけだよ」
「だけど、普通じゃないのではないかしら。それにあの金色の目……。まるで……何か、機会を伺っているような……ねえ、猫が獲物を見るときの目を見たことが?」
 妻の話はこうだ。山鳥の肉を捌いている時のこと、何か気になって背後を見てみれば、例のまだら模様の猫が椅子から身体をこぼさんばかりに座り込み、じろじろと妻を眺めまわしていたという。身体の大きさにあった歯の間から真っ赤な舌で口の周りをなめとり、鼠など軽々と踏みつぶせる太い前脚で手をこまねくように、擦りあわせていた。それを見た彼女が思わずキャッと悲鳴をあげると、まだら模様の猫は何事もなかったようにその場でうずくまり、わざとらしく寝息を立て始めたそうだ。
「考えすぎだろう、だって、おまえは肉をさばいていたんだ。そりゃあ腹が減っていたらまな板の上の塊が気になるだろうさ」
 妻は何かを思い出したのか、青ざめた顔で首をふった。
「あなたは知らないんだわ。あの大猫が坊やと遊んでいるとき、子供の小指ぐらいの大きさの牙で、あの子の服に穴をあけたことを」
「じゃれたら偶然そういうことも起こるよ。動物なのだから。それにほら、ごらんよ、現に息子は傷一つないじゃないか」今思えば、Fはまだら模様の猫にいやに肩入れをしていたようだった。というのも、彼は絵を描いている時、一人でこもっている時が多かった。そんな時、柔らかな毛のこすれる足の感触に慰められていた。猫は彼の前では非常に大人しく、絵を描いている間はいつまでもそばにいてくれた。
 しかし、彼の妻は謎めいた恐怖に怯えていた。
「そうだとしても……あんな大きな猫に襲われたら、私たち、ひとたまりもないでしょうね。まるで魔女の猫よ」
 まだらの猫について話し合ったその日の深夜、Fは酷くうなされた。
「夢を見ていたんです」と、Fは深いため息をついて言った。「どんな風に始まった夢かは曖昧です。夢とはそういうものかと思いますが……。かなり息苦しかったことは憶えています」
 悪い夢だったようだ。暗闇で爛々と輝く一対の瞳が、どこへ逃げても追いかけてくる――口に出して説明できることといえばそれだけだった。
「そのとき、しゃがれた男の声が耳元でしました。『お前が誰かを知っている』――他にも何か、呪詛めいたことを言っていましたが言葉は思い出せません。あまりの苦しさに夢うつつで目を開けると、私の胸の上で黒い塊がぴゃっと飛び上がり、それは音もなく床に落ちるとベッドの下にもぐり込んだのが気配でわかりました。影のように恐ろしく素早かったんです。それで目が覚めました。頭から氷水をかけられたかのように肝が冷えましたよ……」
 Fはその時のことを思い出したのか、ブルッと身震いした。
「何故かというと、私は確かに見たんです。あれはまだらの猫の姿でした。私の胸の上にどっかと座り、金色の両目で眠る私を鋭く見下ろして、ぐいぐいとのどの付け根を押していたのです。それは猫の戯れで、夢にうなされていたから過敏になっているだけだと、あなたは思うに違いありませんね。私だってそう思ったでしょう。ですがね、起きて喉を触り、生温かな血を手のひらに感じれば、そんな考えは消えてしまいますよ。尖った爪が刺さっていたのでね」Fはすぐさまベッドの下をのぞき込んだが、そこにはがらんとした隙間あるだけだった。部屋を見回してもどこにもそれらしき姿はない。すぐさま彼はまだらの猫を探した。猫は暖炉の前で平然とした姿で、まだら模様を膨らませたりしぼませたりして、ぐうぐうと寝ていたそうだ。
 Fはその日以来、妻と同様、不気味な気分を頭にこびりつかせていたものの、一旦飼った手前、猫を追い出すことが難しかったという。ハロルドは彼と同じサイズもある猫と兄弟になっており、まだらの猫のほうも面倒見が良かった。息子がおもしろ半分でしっぽを掴んだり、耳をかんだりしても嫌がらず、おっとりと目を閉じていた。そんな関係なものだから、Fがまだらの猫を捨てると子供に噛んで含めるように伝えたときは大変な騒ぎになった。ハロルドは酷い癇癪を起こして泣き叫び、暴れ、手当たりしだいに物を投げ、壊れんばかりに叩いた。度々彼の息子はそういう状態になるのだが、そのときばかりはFも手がつけられなかったという。夫妻にとっては獣でも、ハロルドにとってまだらの猫は無二の友なのだ。当の猫は怒り狂う息子を窓辺でじっと見ていた。まるで、人間という生き物は滑稽だとでも言わんばかりの冷淡な顔であった。その時は、妻がハロルドをなだめすかして丸くおさめたのだが、以来、まだらの猫を息子から取り上げるのが難しいほど彼らはべったりとくっついて片時も離れなくなったという。
 夫妻はまだらの猫を気味悪がっていたものの、飼い猫と子供を二人きりにさせないためにたえず目を離さないようにした。そうはあっても、不意に何かが起こることがあるようで、ハロルドが大泣きしてサラに抱きついたことがあった。まだうまく言葉が喋れなかったためさっぱり要領を得なかったが、どうやら庭の外に何かあるのだという。泣きじゃくる息子を抱えて見に行くと、彼はアッと声を上げた。
「庭で犬がひっくり返っているんです。あれは隣の家で飼われていたやつで、名前はアンブルと言いました。猟犬のように頑強な体をしていました。人の顔をすぐに覚える愛想の良い性格で、我が家に猫が来る前は、息子のお気に入りでした。そのアンブルが庭で死んでいたのです。酷い形相でした。充血した両目をこれでもかと見開き、口の端から長い舌をだらりとさせ、それが地面まで垂れていました。首は抵抗したように捩じれて仰向けに倒れているんです。どうやら喉笛を噛み切られたようでした。赤黒くなった首回りから血がぽたりぽたりと雫のように落ちていました。一体どんな恐ろしい獣にやられたか、ですって?――まだらの猫ですよ!」
 Fが駆けつけた時、彼の飼い猫は、ひっくり返ったアンブルの胸に腰かけ、しげしげといった風に死骸を見下ろしていたという。驚くFの声にまだらの猫はバッとふり向いた。その真っ赤に染まった顔を彼らに見せた後、猫は風のようにその場から去ったそうだ。
「アンブルが我が家の庭にいた理由は別段、不自然なことではありません。アンブルは時々一匹でうろつくやつでしたから…出歩いているうちに迷い込んだか、何か気まぐれでやってきたのでしょう。それより我々が疑問に思うのは、どうやって猫が犬を殺せるのか、ということなんです。いくら人間の子供のように大きな猫とはいえ、アンブルも大きく逞しかった。それに猟犬のような体つきをしたアンブルを、我々に気が付かせぬまま絶命させることなど到底無理な話です。マクミールとはかなり揉めましたよ。隣に住む、アンブルの飼い主のことです。私がやったのではないかと疑われもしましたが――どだい、猫が犬に敵うはずなどあるはずがない。それが常識なんです――結局のところ、アンブルが息子になにかちょっかいを出して、怒った猫がその喉笛を噛み切ったのではないか、ということで話がつきました。少々の弁償金とともに。その晩、マクミール家から戻ると、まだらの猫はやはりいました。昼間の騒動などなかったかのように、毛には一滴の血もついおらず、廊下の影からじっと私のことを見ていました。妻は怯えていました。誰も猫に触れていないといいます。息子は相変わらずまだらの猫にべったりです。私は考えました。もはや、私たちには穏やかな手段など残されていないように思われました」
 猫は時々、とりつくろったように甘えた声を出したが、白々しく彼は感じていた。そして度々夜中に息苦しさと男の声で目が覚めては、部屋の隅にさっと逃げる黒い影をかいま見たような気がしたという。夜は安全に眠る時間ではなくなっていた。
 
 
 
 それから三日後のことだ。夏も終わりに近づき、少し風が冷たくなってきたがまだ太陽の暑さが残る季節――Fと息子は二人で家の裏手へでかけた。彼の妻は街へ赴いていたため、彼が仕事をしながら息子の面倒を見なければならなかったのだ。妻は出かけ際、肩掛けをしながら険しい顔をして、くれぐれも息子から目を離さないようにと忠告して出ていった。庭の裏手では、草原が広く、その次に大きな湖があり、最後には深い森が一種の領地のように真横に続いていた。湖面は風でそよぎ、うっすらと波が光り、大変おだやかでうつくしい風景であった。陽光で灼けた草原をハロルドと二人で歩いていると、背後でかさかさと足を踏みならす音がしたので、振り返ってみれば、飼い猫が静かについてきていた。しっと強く追い払ったが、猫は図々しいような顔つきで彼らの後ろを少し遅れて歩いた。もう彼にとってまだらの猫は飼い猫ではなく、大きな獣畜生と同然のように感じられていたのだ。
Fは目当ての場所にたどりつき、仕事道具一式を広げて腰を下ろした。
「あの獣をどうするべきだろうか」――彼はそう考えていた。夜は満足に眠れず、目の奥では鈍痛がしていた。あれから猫は大人しいものだった。のん気な様子で伸びをして、すまし顔で毛づくろいをし、わきまえたように息子と距離を取って、まれにFの足元にまとわりついては餌を要求した。全くよくできた〝猫〟だった。
 Fがまだらの猫に考えを巡らせながら筆をキャンバスに乗せている間、彼の息子は湖面を手で弾き、水しぶきを飛ばして遊んでいた。まだらの猫はといえば、草むらで羽虫を追いかけているようだった。ともあれ、これだけ彼らと近くにいるのだからと、Fは自分の仕事に集中し始めた。いくばくかの蓄えがあるとはいえ、彼の新しい作品を発表しなければ一家はいずれ立ちいかなくなってしまう。
 それからどのくらいの時間が経っただろうか――不意に目を上げると、ハロルドは何か捕まえたのか、大喜びで小さな腕を掲げているところだった。名前はわからないが、土色の昆虫であった。六本の足を不規則に動かして子供の手の中でもがいている。肉の枷から逃れられる術はない。その時、虫は必死の抵抗でハロルドの皮膚を刺した。彼の息子はワッと声を上げ、地団駄を踏んだ。こいつが刺したんだ、こいつが刺したんだ――そんな調子でハロルドは昆虫の脚をつまむと、そのままぷつりと一本もいでしまった。三本と二本の非対称になった脚は、それでも動きを止めなかった。
 Fはその光景に言いようのない衝撃を受けた。
「何故今まで忘れていたのでしょう――子供の無邪気な心――私はハロルドの戯れを見て、落雷に打たれたかのようでした。その場でしばらく棒立ちしたくらいです――神よ情けをかけたまえ――私の、子供の頃の恐ろしい出来事――いや、私の恐ろしい行い! 何故忘れていたのか――」
 Fは今にも気が触れんばかりにぶるぶると身体を震わせ、支離滅裂になっていた。
「どうか落ち着いてください、お話はもう結構ですから、しばらくお休みになってはいかがですか、ミスター・F――」ただならぬものを感じたパトリシアはすぐさま駆け寄ったが、その時、彼は節くれ立った手でパトリシアの腕を強く掴んだ。椅子から身を乗り出して、激しい興奮で目を飛び出させている――まぎれもなく恐怖によるものだった。歯の根は合わず、乾燥した皮膚の目立つ唇が震え、うねる髪が青白い顔にはりついていた。
「いえ、どうか聞いてください。後生ですから……」Fは懇願した。「当時の私は何もわからぬ子供だったんです……あの時、ミサのあった日の午前、教会の墓地に住んでいた三匹の仔猫と遊んでいました。猫たちも私も、母親の目はなく、そばには教区の誰かが置いていったであろうミルクの入った深皿がありました。仔猫たちは遊びに夢中でした。そのうちの二匹がかかんに私の腕に挑み、残りの一匹は少し離れた草の上で座り込んで兄弟たちが奮闘しているのを見ていました。最初のうちはよかったのです。しかし、しばらくすると私は猫たちの仮想の敵として彼らの相手をするのに少々飽きてしまっており、それどころか激しい交戦に苛立ちを覚えていました。私の五本の指が宿敵であるかのように何度も飛びかかってくるのです。執拗に、です。ええ、そうです……もうおわかりでしょうね? ハロルドの癇癪はまぎれもなくかつての私のものだったのです――突然腕に痛みが走り私は仰け反りました。立ち上がり、皮膚を走る赤い筋を見て、彼らはルールを破ったのだと激しい怒りを感じました。カッとした私は、まだなお腕にしがみついて牙を立てる一匹を引き剥がし、振り払い――強く、振り払い――……その猫は落下して、ミルク入りの深皿にぶつかりました。不幸にも、その深皿は粗末でしたがほとんど石できたかのように頑丈でした。そんなものの縁に強く頭をぶつけて無事な仔猫などおりますまい。猫のくせに、何故上手く着地できなかたのか疑問に思われますか? 私にはわかりません……ただはっきりしているのは、その時、頭を打ったショックで仔猫は深皿の中で狂ったように痙攣し、ミルクの中で溺れ死んでしまったということです。皿の周りは白い液体が散乱し、近くで座って呆然と見ていた兄弟猫の体にも降り注いでいました。残る一匹が私に向かってシャッと叫びました。そして事もあろうに私の足に凄まじい勢いで噛み付いてきたのです。その小さな顔を悪魔のように歪ませて――今ならありありと思い出せます。生まれて初めて他者から憎悪を向けられた私は、恐怖を感じ、咄嗟に壊れた墓石の一部を拾いました。思い切りぶつけましたよ。……もうあなたに隠すことなどありませんね? 私は仔猫を始末する気でいたのです。私はすでに一匹の兄弟猫を殺してしまった。たとえ事故であろうと、どうして動物にそんなことがわかりますか? 理由など些細なことです。殺したことには変わりません。皮肉にも、私の五本の指は本当に猫どもの宿敵になってしまったのです。猫どもは私が兄弟を殺したのだと理解していました。殺人鬼だと猫の言葉で叫んでいました。だから私は本能から恐怖を感じてそうせざるを得なかったのです。投げた途端、ギャッという悲鳴とともに、石の下で何か潰れる音がしました。ですが……その猫はまだ生きていました。黒っぽい毛に血をからませて、よろよろと石の下から這い出してその場から逃げようともがいているところでした。頭が半分潰れかけているのに何故動けるのでしょうか? ここまで来てしまってはもう放っておくことはできません。せめて楽にしてやる義務がある――私は半ば恐慌状態でした。理性など消え、ほとんど恐怖の言いつけに従うまま猫を追いかけ、何度も何度も猫の頭に石を叩きつけました。頭蓋が割れ、脳漿が飛び散り、石が赤く染まるまで……そのうち仔猫は四肢をひくつかせ、ぱったり動かなくなりました。私は顔についた血をぬぐい、最後の一匹を見ました。ミルクの白い液体と兄弟の血潮でまだら色に染まった猫がそこにいました。猫はじっと私を見ていました。ただ座り込んで見ているだけでした。大人しいやつだったので、殺すのは難しくないと思われました。私は石を振り上げました。その時――ああ、それがもっと早ければ、私もこのような凶事は行わなかったのに――私の母親が教区の仲間内のおしゃべりを終えて、私を呼びつけていました。石と、ミルクと血で嫌な匂いのする猫たちを見比べた私は、手の中のものを草むらに捨てました。母親の待つ教会へと走って墓地から去る間際、猫の悲しげな鳴き声がしました。私は振り向きました。最後の一匹が死んだ兄弟の元へ体を寄せ、舌でいたわるように舐めているところでした。頭が潰れ、毛皮に血潮を染み込ませた亡骸を丁寧に舐めとっていました……墓地ではずっと猫の鳴き声がしていましたが、私は全てに耳をふさいで教会の中へ向かいました。それからひと月経ち、私たち一家はロンドンに越すことになりました。あの猫たちの悲劇のせいでしょうか? 両親はもういないので確かめようがありません。以来、私は自分の記憶に鍵をかけてポケットにしまい込みました……」
 不気味な沈黙がおりていた。Fはパトリシアの腕を握り込んだまま、離そうとしない。
「それで」彼女はおずおずと言った。「あなたは何をおっしゃりたいのですか?」
 Fは血走った目を向けた。「わかりませんか? 〝まだらの猫〟ですよ! あの模様、あの色使い、あの時のままだ――私が殺し損ねたあの時の猫が、再び私の前に姿をあらわしたのです!」
「けれど、少なくとも三十年は経っているのでしょう? 猫の寿命では考えられませんわ……それに、毛並みだって、本当は違ったのでしょう?」
 Fは唸り、自分の爪を噛み始めた。椅子に座りながらドンドンと足を踏みならしている。パトリシアは彼からようやく離れることができたが、人を呼ばなければならないようだと考えていた。呼び鈴は扉の前のお飾りの机の上にある。今から出口に向かうには不自然すぎた。
 Fは突然、「私の息子はやつにさらわれたんです! そして殺されたんだ!」と叫んだ。
「なんですって?」パトリシアは思わず聞き返した。
「あの非情な獣に命を奪われてしまったんです!」Fは立ち上がり、大声でまくしたてた。「何もかもすっかり思い出した私は、ショックのあまりその場で心を失っていました――その隙にやつがハロルドをさらったんです! 気がつけば周りには私と仕事道具以外になにもなく、猫と息子は忽然と姿を消していた――村をあげて何日も探しましたよ。見つけたものは恐ろしい事態を暗示していた――血の染みのついたハロルドの衣服の残骸と、靴が片方、そして子供の左足の大腿骨があの湖に浮いていました……」
 彼は顔を覆って力なく座り込んだ。
「妻とともに涙を枯らしたその晩、悪夢を見ました。馬車のような巨体のまだらの猫が、息子の首根をくわえて今にも立ち去ろうとしている夢でした。あの黄金の目は燃えるようにギラギラ輝き、完全に息の根を止めてしまった獲物を運ぶように、がっしりと牙を息子の喉の肉に食い込ませて、獰猛な笑みを私に向けていました。ハロルドは――ああ、かわいそうな、ハロルドよ――彼はもげそうなほど頭を背中にそらし、両手両足はだらりと地面に垂れ下がっていました。『お前なのか!』私は夢の中でそう叫びました。まだらの猫はきびすを返し、闇の中に消えていきました。息子も猫もそれきりです。私たちは悲しみに耐えられず、都会に戻りましたが、結局、妻のサラは家を出ていきました。彼女を責めることなどできません……私が目を離さなければこんなことには……ですが、お話はこれで終わりではないのです。私はハロルドの失踪と妻との別居、そして自分がしでかした過去の罪を同時に受け入れなければならなくなり、頭がおかしくなりそうでした。あの時のまだらの猫が、復讐に燃えて私の前に再び出てきてもなんら不思議ではありません。夜眠っていると、どこからともなくする猫の鳴き声に起こされました。絵を描いていると、足下にするりと毛をこすりつける感触がしました。ふと目を上げると、部屋の隅をあのまだら色がよこぎるのを度々見ました。あの悪魔の獣は紛れもなく私の魂を狙っているのです……私は酒に溺れました。友人の少ない私が頼れるものといえばもはやそれくらいなものです。そしてある夜、行きつけの酒場で飲んでいるとその知らせが飛び込んできました。妻が――サラが、街で事故に遭い今や一刻を争う状態だというのです。私は酔いから冷め、すぐさま彼女の元へ急ぎました。妻は変わり果てた姿でベッドで横になっていました。頭や身体は包帯でぐるぐるに巻かれ、そのくせ目をカッと見開き天井を凝視していました。恐怖の瞬間を凍らせて寝かせたような有り様でした。医者の言うことには、サラは急いで帰宅する途中、〝不慮の事故〟で馬車から投げ出されたというのです。頭を強く打ち、暴れる馬にめちゃくちゃに踏まれ、苦しみのうちに亡くなったと聞かされました。老いたサラの母親が悲しみにうちひしがれ、ベッドにしがみつき、その肩をサラの兄が支えていました。サラの友人が部屋を出ていく前に私の肩を叩き、何かお悔やみの言葉を口にしていましたが、呆然と立ち尽くす私の耳には届いていませんでした。そのとき、ふと、医者や看護婦に混じり、御者とおぼしき男が帽子を胸の前でくしゃくしゃに握りつぶしているのが目に入りました。私は彼の姿を認めるや、つかつかと近寄り、男の胸ぐらを掴みあげました。わめき暴れる私を医者やサラの兄が必死で止めてくれなければ、今日この場に私はいなかったでしょうね。御者の男は泣いていました。『本当に事故だったんだ。どうか許してくれ。何かが突然飛び出してきて馬に襲いかかったんだ。まだら模様の大きな獣だった。そのせいで馬は暴れて、馬車がひっくり返ったんだ……』と床に膝をついて許しを請うていました。私は気勢が削がれ――それどころか体中から血の気を引かせ、ぶるぶる震えました。あの悪魔は、何が何でも私を苦しめ不幸のどん底に落とすつもりなのだとそのとき悟りました。直接私を殺すのでは、割に合わないというのでしょう。そうに違いありません。でなければ、どうしてハロルドやサラの命を狙う必要があるというのでしょう? かわいそうに、彼らは私に対する復讐の犠牲になってしまった――そうして私は病院を飛び出し、あてどなくさまよい、ドクター・ブラックハウスの元へたどり着きました。あなた方は、精神医でありながら、世の論理では片付かない事例も取り扱っているのですよね? どうかお願いです、ミセス・ローウェン――無垢の命を殺めた私では今更教会になどいけません。あなたがたが頼りなのです――私はいったいどうすれば……」
 Fはそこで、はっと部屋の角を振り向いた。そこには学術書がぎっしり詰まった本棚とカーテンが、暗闇の中で薄ぼんやり形を浮き立たせているだけだった。
「まだらの猫がいる……」Fはうわごとのように呟いた。パトリシアは燭台を手にとってその方角を照らしたが当然のように何もなかった。パトリシアがFに目をやると、彼は椅子から立ち上がった。
「あなたには聞こえないのですか?――ほら、また鳴いた――なんて恐ろしい鳴き方をするんだろう――ああ、猫がいるぞ――」
 Fは隅の方を指さす。「棚の方から暖炉の方へ歩いているではないですか! なぜ見えないのです! さあしっかり目を開いてよくごらんなさい!」
 パトリシアは明かりを巡らした――そのとき、彼女は後にも先にも二度と忘れられないほど、身の毛のよだつものを見てその場で釘付けになってしまった。燭台の明かりに照らされて影になったソファの裏側から、獣のような大きな影がむっくりと身体を起こしたのだ。その黒い物は音もなく歩き、灯影から灯影へと跳び移る姿を壁に投影させた。影は暖炉の張り棚へひと跳びすると、狩りをする狡猾さで彼らを見下ろしていた。人智を超えた存在の力によるものか――暖炉の炎が激しく燃え始め、火の粉が天井に届かん勢いではぜていた。それが獣の影と重なって奇態なまだら模様を作り出し、黒い首がせせら笑うように上下に動いている。
「化け物め!」
 Fは懐からさっと拳銃を取り出した。引き金が絞られると同時、巨大な影が牙を向いてFに襲いかかった。パトリシアが驚く間もなく雷に打たれたような音が邸宅を揺るがした。強風がカーテンを暴れ狂わせ、大粒の雨は絨毯を叩きつけている。遥か彼方から地響きのような男の笑い声が聞こえた気がした。
 パトリシアはよろよろと椅子にすがりつき、どうにかこうにか立ち上がった。先ほどの大火事のような暖炉の火の勢いは嘘のように穏やかになっていた。焦げ跡一つ、ついていなかった……。
 Fは――パトリシアは窓枠に急いで近寄り、身を乗り出した。彼は窓を突き破ってここから落ちてしまった。彼女は大声で彼の名を必死に呼んだが、吹きすさぶ雨と強風で全てかき消されてしまった。それに水かさが増して地面が見えない――とても暗い――何も動くものがない。大雨が目を打ちつけている。Fが無事かどうか、覗いたぐらいでは到底わからなかった。
 マリーウェルや使用人たちが大慌てで部屋に入ってきた。「一体どうなさったのです――」怯えた顔で言うマリーウェルにパトリシアは叫んだ「人を呼んで――庭を探して! 人が落ちたわ! 今から私も行きます――さあ、早く!」
 
 
 パトリシアがこうして語る間、ライムリック卿とセシルは黙って耳を傾けていた。セシルなどは息をするのも忘れているのではないかというように口を覆ったまま固まっていた。
「……それで、そのFという男は庭で見つかったのかね?」ライムリック卿が静かに訊ねる。パトリシアは首を振った。「いいえ、嵐の中みなで必死に探しましたが、Fがそこにいた形跡は何一つ見つけることができませんでした。水をさらったり棒でつつき回したり、いろいろ手を尽くしたのですが、大嵐の中で長時間の捜索を行うのはとても危険が伴いました。しまいには、もうこれ以上してやれることはないと引き上げるしかなかったのです……」そうして続けることには、
「夢か現実か、定かではありませんわ――Fの混乱と行動力に惑わされて、ありもしないものを見たと思い込んでしまったのでしょうか? ドクター・ブラックハウスならそうおっしゃるかもしれません。今は彼の無事を祈るばかりです」
 卿は紅茶を一口飲んだあと、パイプに煙草を詰めなおしてマッチを擦った。何度か吸い込み火をつけたライムリック卿は、ふうと一息つき、それから執事のジャドをそばに呼びつけ小声で何か指示を出していた。ジャドは静かに部屋を出ていく。数分後、彼は他の使用人と一緒に大きな額縁を二つ携えて戻ってきた。
「話を聞いていてね、もしやと思ったのだが――そのFという男はこれのことではないかね?」
「まあ……その絵は」セシルは驚きの声を上げた。「この家にあったなんて知らなかったわ」
ジャドたちが持ってきたものは例の『死と婚礼を上げる花嫁』と『苦悶する聖職者』の油彩絵画だった。
「本物だよ」と卿はパイプ煙草から口を離して言った。「この絵の前の持ち主が何か妙に気味悪がって私に売りつけてきたのだ。酔いと食事に気を良くした私は勢い余って購入したのだが……まあ、家に飾るにはちいと〝辛気臭くてな〟、物置に保管しておいたのだよ」
 パトリシアは目を丸くして驚き呆れていた。まさかこんな近くに彼の油絵があるとは、想像もしていなかったのだ。
「それでどうしてわざわざここに持ってきたかというとだね」ライムリック卿は言った。「昨日、その前の所有者であるロンヴィル卿が訪れて――彼は別の件で私に用があったのだが――、ふと卿は思いだしたかのようにこの二枚の絵について私に訊ねてきたのだよ。それで二人してしげしげ眺めることになるのだが、私はロンヴィル卿に聞いてみた。この絵の一体何が気に入らなかったのかと。そうすると彼はしばらく黙ったあと、こことここだよと絵の一部を指さしたのだ。そら、お嬢さん方にも教えよう、いわく、こことここらしいよ。ロンヴィル卿曰く、『不自然に気味の悪い生き物がいないか?』とのことだった。うむ……確かに、彼の言うとおり何かいるようだ。思うに、これは猫に見えないかね」
 ヴェールを被りうつむく花嫁……その奥の壁のところに染みのようなものが貼りついている。猫のような輪郭がこちらを伺い見るようだった。もう一つの方は、床で苦しむ聖職者の影に、潜むようにして色が乗せてある。こちらも獣がうずくまっているように見えた。
「寓意にしてもさり気なさすぎる。卿の言うとおり、不自然なのだよ。どうしてこんな絵を遺したのか、私にはさっぱりわからん。未知なる存在が画家の指先に宿ってしまったのか……」とライムリック卿は言った。
 パトリシアは気になって彼の言葉を繰り返した。
「〝絵を遺した〟、とはどういうことでしょうか?」
 ああ、と卿は頷く。
「Fは死んだよ。ロンヴィル卿が教えてくれた。だからやつもこの絵が見たいなどと言い出したんだろう――卿が言うことには、嵐が過ぎた翌日、ここから遠く離れたノルウィントンという村の近くで木からぶら下がっていたそうだ。地上から5m離れた高い場所で、喉に折れた木の枝を貫通させてそのままゆらゆら揺れていたそうだ。どうしてそうなったかはわからんが……死体を下ろしてよくよく調べてみれば、一時期もてはやされたかの有名な画家というではないか。そんな尋常ではない死に方だったおかげでロンヴィル卿の耳にも届いたそうだよ」そこまで言ってライムリック卿はしまったという顔をした。セシルは今にも気を失いそうなほど青ざめていたからだ。
「そんなことってあるかしら……?」セシルは震える手でパトリシアの手を握った「どういうことなの? パティー、あなた一体、何を見たの? 本当にそんなことがあって? あなた、夢を見ていたのよね? だって一晩でそんな遠くへ行くことは不可能ではなくて? 馬があっても三日はかかる場所よ。それに、どうしてそんな風に死んでしまったの?」
「私にもわからないわ……。でも、確かに二週間前、あの方は訪ねてきたわ。マリーウェルも他の使用人も彼の姿をきちんと見ているし、濡れたタオルだって、飲みかけの紅茶だって、銃弾の痕だって残っていたのよ」
「わたし、本当に怖いわ」セシルがそう言ったその時――二人の間で丸くなっていた真っ白な猫が起きあがった。大きく体を伸ばした猫は寝椅子から軽やかに降り、優雅な様子で白い尾をふりふり扉へ歩いていった。
 三人と使用人たちはブランシュを黙って見ていたが、ライムリック卿が口を開く。「ともあれ、もう彼の絵は処分しまおうと思うんだが、どう思うかな、セシル? あのような話を聞いてしまった以上、手元に置くのも気が引けるよ。Fという男、聞けば聞くほど、酷い冷血漢だと思わないかね? 自らの臆病さのせいで被害者意識に逃げ込み、無垢なる命を無残に殺してしまったのだ。Fとは生来そういう男だったのだよ。自らが手にかけた生き物に対して言い訳ばかりしていたではないか。か弱い自分が誰よりも可愛かったのだ。たまたま殺した相手が猫だっただけなのさ。いくら素晴らしく腕の良い画家でも、そのような卑劣な人間の描くものに果たしてどれほど意味があり、価値があるというのか? もちろん、Fの家族には同情するがね。子供や妻への愛は本物だったのだろう――そして猫の兄弟への愛も本物だったのだ。恐ろしいくらいにね。さて、結論として、やはりこの絵は捨てるべきだと私は思う。こんないわくのあるものを世に残しておいてはいけないのだ。金額がつり上がって世間がつまらなくなる前にな」
 セシルは目の端に滲んだ涙を拭った。「死んだ方や、遺族の方を思うと、私は言葉もございません。絵はお母様とよく話してお決めになってはどうかしら」ライムリック卿は「どうせ私と同じ意見になるだろうよ」と、絵をホールへ運ぶように執事に言いつけた。
 ブランシュは扉の前で大人しく座っていた。油絵を抱えた使用人たちがぞろぞろと部屋から出ていくのを見送っている――執事のジャドを除いて、使用人たちが一人残らずいなくなったとき、猫はパトリシアを振り返る。エメラルドに輝く瞳で彼女を見つめ、ゆっくりと親愛の瞬きをし、小さくにゃおんと鳴いた。
 
(了)


【2017/07/29 更新】

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